踊り手 チョン・ジュミ(鄭珠美)
(龍仁市民新聞 [219号]2003年10月16日(木)、[220号] 2003年10月23日(木)、[221号] 2003年10月30日(木)から著者の許可を得て抜粋)
とても特異な人
チョン・ジュミは、もう不惑の年齢を越しているものの伝統舞踊の踊り手としては若手なのですが、才人庁舞踊(ジェインチョンチュム)を体得するまで傾けた努力は並々ならず、才人庁の踊りを正しく、きちんと継承している人物です。
十才の時に踊りに出会って30年、大学は両親の反対を押し切って舞踊科に進学しましたが、それだけでなく文芸創作、国語国文学科も卒業し、経営学科まで通ったこともあります。演劇俳優、パンソリ、チャング、プク、ドラ、伽椰琴の経験まであり、その経歴はとても特異です。
本格的な舞台公演を開催するだけでなく、解説付きの舞台を用意したり、「踊りで見る夢」というテーマで青少年の舞踊公演を開いたり、猛暑の時期の公演は成功しないという舞台公演のジンクスを破って真夏の夜の公演で観客を動員したり、文化観光部の訪問伝統舞踊の奉仕団の一員として各地を巡回したり、我が国の伝統芸術は巫俗であるという偏見の強いキリスト教徒の文化的見識のために国楽宣教会の初代舞踊担当として努力を注ぐなど、非常に広範に尽力されています。
その経歴の中でも最も独特な点は、彼女が渉猟した伝統舞踊の種類の豊富さにあります。彼女は公式には李梅芳先生の僧舞とサルプリチュム、金寿岳先生の晋州教坊クッコリチュム、李東安先生の太平舞の履修者ないしは伝授者です。加えて、晋州、湖南、平壌の剣舞、ハン・ヨンスク先生のサルプリチュム、キム・チョンフン先生のチュンネンジョンや鶴舞、ブクチュム、イプチュム、チャンゴチュム、三鼓舞、 五鼓舞、扇舞等、また、それらに先立つ太平舞を含めた才人庁舞踊の精髄である基本舞、オッチュンモリシンカルデシン舞、チンセ舞など数えきれないほどの伝統舞踊を習得した踊り手です。
派閥を越えて
伝統舞踊では派閥の壁は実に高くて強固です。極端な場合は、ある派閥所属の踊り手が違う派閥の踊りを習ったという理由で除名される事例もあります。それにも関らず、チョン・ジュミは有名な派閥の踊りを幅広く習得した特異な人物です。伝統舞踊界の現実は徹底的な徒弟制伝授方式で派閥間を行き来することは普通難しく、色々な踊りを習得することはそれなりの困難も多かったそうですが、そうしているうちに自らも知らないうちに色々な演目の履修者に指定されるようになり、独特の経歴になったそうです。
チョン・ジュミは、昨年の光復節に‘チョン・ジュミ踊りに行く’という公演名で伝統舞踊界の代表的な三派閥の踊りを一度に上演しました。どうしてそんなにことを敢えてするのでしょうかという質問に彼女の返事は明快でした。
「ある踊り手が色々な派閥の踊ることだけでも話題になるでしょう。しかし私が今回の舞台を通して目指していることは、互いに異なる多様な踊りを身につけて私なりの感覚を作り出し、感覚の向こう側に息づいている精神への一つの架橋になることです。その精神はまさに才人庁です。」
踊りの醍醐味を探す旅
彼女は自身の舞踊人生のことを、伝統舞踊の醍醐味を探し求める旅の歳月であったと述べています。その醍醐味を見るために高い派閥の壁を越境したし、その派閥の味の秘密を自分の踊りのポケットに入れて無事に逃げることも数回。しかし、李東安先生との出逢いは越境しようとした結果ではなかったので不思議な縁だということです。先生のことを知らずにかつて基本舞に魅了され、舞踊界ではほとんど注目さえ受けていなかった才人庁の踊りに偶然に出会いましたが、その偶然の源を探して10年以上先生の踊りを習い、運命の最後の弟子として、これを一生の天命として受け入れるようになりました。
敬虔なキリスト教徒の彼女が運命だというのは、1995年7月15日水原の華寧殿前に李東安先生の訃報を聞いて駆け付けたところ、予想外にももう少しで喪主になるところだったからです。複雑な家系で当然喪主にならなければならない息子一人おらず、色々な理由で周辺にただ一人の弟子も残っていなかったせいで、周囲が女性の彼女を喪主にしようとしたのでした。
何とか喪主の役割だけは断りましたが、チョン・ジュミはこの時から実質的に才人庁舞踊の喪主になりました。もちろんこれは表面的な理由に過ぎないけれど、彼女は以降、先生の追慕公演として才人庁舞踊の舞台の企画はもちろん、学術的な研究も怠らず、修士学位論文を書き、色々な講演会に招請されても才人庁の話をしなかったことはありません。
醍醐味を見た踊り手
李東安先生の周辺に多くの弟子が集まらなかった理由は、先生が足仮面で無形文化財の指定受けたせいで、踊り手としての業績が注目されなくなってしまったことにだけあるのではありません。容易に踊りの弟子として入門してしても、この頃のように忙しい世の中に踊り順序一つ伝授を受けるのに一、二年は基本であったということも、習得を断念させてしまったのでした。門下生の立場ではなくても明らかに先生の教えはゆっくりとしていました。
そのような先生の元でチョン・ジュミはそれでもその成就が速いほうでした。初めて師事を受けた太平舞は一年の歳月がかかりましたが、李東安先生は前例のないことに楽士らを集めて自ら長短を率いて録音され、太平舞だけは私が担った歴史的使命をつくしましたと以前になかった履修証まで書かれました。その履修証にはこうあります。
『上の門下生が、私の指導の下、太平舞の正式履修者として全課程を原形のとおり履修されましたことをうれしく思います。これから伝統舞踊を継承、発展させていく舞踊人の一人として、特別に途絶えることなく太平舞を伝授していく使命を尽くして下さい。同時に、この記録は私が継承、伝授してきた太平舞に対する歴史的責任を全うしたことを知らせるものであり、まったく同じ責任が上の門下生に課せられるようになったことを万人に知らせるものでもあります。』 (「太平舞履修証明書」,1993)
入退院がとりわけ頻繁だった一年余の余日、先生はチョン・ジュミに自身のすべての踊りを教えることを願われましたが、シンカルデシン舞からチンセ舞に移ってチンセ長短を残した頃、先生は永眠されてしまいます。
チョン・ジュミは自身の論文でこのように書きました。『ご自身がきちんと踊られたし、門下生にもやはりきちんと踊ることを希望された先生の踊りの世界と業績は、当然確立されなければなりません。その当然なことのためにこのように私を導いてくださる先生のお言葉を実現する道は今始まったばかりです。』また、才人庁舞踊について、『長短と踊りが絶妙に合って一体になり、どんな踊りにも強固な均衡があってとうとうたる流れがあり、また高度な技巧が必要な踊りでもなめらかに水が流れるように自然に踊った李東安、彼は私たちの踊りの脈を引き継いできた踊り手であり、手本であると同時にその価値を継承した踊り手』であり、『伝統舞踊の生き証人』として、踊りだけにとどまらず『綿々と生きて受け継がれてきた私たちの民族の情緒』を受け継いできたのであると文を結びます。
才人庁舞踊のために
彼女はなぜ才人庁舞踊のためにかくも大変な道を行かなければならないのでしょうか。この疑問に対する答えとして、昨年10月25日京畿文化財団タサンホールで開催された才人庁舞踊の単独公演の舞台で彼女が語ったことを聞いてみてください。
「私は自分の見識で良いと感じた踊りを渉猟してきました。その間私が習った踊りは美的に相当な完成度を持った踊りであったし、ある地域またはある派閥の特性を最も個性的に表わした踊りでした。
しかし、才人庁舞踊はその出自だけ見ても単独の派閥にとどまらない巨大な伝統舞踊の本流でした。私は才人庁に数多くの派閥の踊りが集められたし、またそこから数多くの派閥が分かれて、我が国の各地に浸透していったと信じています。才人庁の踊りを詳しくのぞいて見れば色々な地域、色々な派閥が持つ音楽的、舞踊的特性らが絶妙に調和していることが分かります。
私がその間数多くの踊りを習うために努力したのも、もしかしたら才人庁舞踊が持つこのような総合的特性を正しく理解して踊るためではなかったかと感じることがあります。とにかく才人庁の踊りは私たちの民族に共有された情緒と美学を表わしていますから、伝統舞踊の保存と伝承という次元を越えて、これから私たちが向かうべき方向を教えてくれます。狭い意味では、同じ踊りでも私たちの踊りの本質を損なわなくても踊り手自らの踊り、すなわち‘自分の踊り’を踊れるようにその道を案内する踊りです。」
加えて、彼女は才人庁舞踊を踊りながら、伝統的な音調と長短の重要性を痛感したと語っています。
例えば才人庁舞踊長短の根幹の京畿巫楽は今日最も華麗で豪華な音楽です。その中でもチンセ長短は、京畿巫楽の九長短をその真髄として、一重長短はもちろん二重長短まで、打ってすぐ覆して打ったりする自由自在の演奏が成り立てばこそ良い味が出るという長短です。
彼女は、今ではこの長短を正しく打つ人がなくて惜しくも録音音楽を使ったりもしているが最初からこの長短の復元を自らしてみたいと腕をまくりあげていました。
自身の門下生らに才人庁舞踊は力学的配分が重要だといって必須にバレーを習うように求めている彼女が、祭祀で30年は叩いてこそうまみを出すことができるというチンセ長短をどのように再現するか期待しないわけにはいきません。
自分の踊りのために
先立って申し上げたタサンホールは踊るにはそんなに適した空間ではありません。これを補完するために書道家から書画を受けて舞台をつくりあげたことに対する感謝の言葉を通じて、チョン・ジュミが才人庁舞踊を通して見る夢のしっかりした世界をのぞいて下さい。
「私の無礼な懇請に対して至純の気持ちでこのように至高のランを描いて下さった厳燕ソン・ジョンヒ先生、私は先生の踊りのような文字と絵、そして私たちの民族の格調漂う墨香を愛します。…先生は今日厳燕体と呼ばれるようになるまで、古今のすべての書体を習われた方でいらっしゃいます。書体一つ一つごとに当代の一家を成しているのに、先生はどうしてその多くの書体を体の中に引っ張り込めたのか、とても想像することがさえできませんが、私は先生の文字の前で勇気を得ます。…私は先生の文字のように踊れるようなることを切実に希望します。このために生きて息をする瞬間をのがさないで踊っていくでしょう。」
資料提供:才人庁伝統舞踊伝承会 (韓国 果川市)
(翻訳の誤りがございましたらその責は竹田陽子に帰するものです。)