才人庁(才人廳)の歴史

才人庁の組織

才人庁は朝鮮朝純祖24年(1824)、各道の才人都庁が統合され、1920年代日本によって廃庁されるまでの110余年の間継続した廃庁当時4万余人の会員を率いた大規模集団でした。当時才人庁は京畿道華城郡にあったため、華城才人庁と呼ばれました。廣大廳あるいは花郞廳とも呼ばれた才人庁は京畿だけでなく忠清道、全羅道にもあり、各郡にも郡才人庁があったといいます。

才人庁は彼ら各道に都庁をおいて、その長を大房と呼びました。大房の下には左道都山主、右道都山主という都山主が2名おり、彼らは一つの都を左右で分けて管轄したといいます。その下には執網が4人、公員が4人、掌務が2人いて、執網と公員は人的資源管理と行政業務を担当して掌務は予算関連業務を担当しました。これに対し、郡にいる長を庁首と呼び、その下に公員と掌務をおいて業務を掌握していたそうです。これら3道にある才人庁の中で華城にあった才人庁の首長の大房が各道を総括する形態をとっていて、華城才人庁の大房を特別に都大房と呼び、才人庁の本庁という位置づけでありました。

才人庁の形成

才人庁の成員は世襲巫タンゴルと巫楽を伴奏するファレンイが主軸で、綱渡りなどの曲芸をするオルムサニと歌と踊りの芸人、その役割は明らかではありませんが長短ジェビ(囃子)で見られる才人、役者などを網羅していたことが明らかになっています。

歴史的には、高麗末毅宗時代には伶官といって山臺雜劇の俳優160人が国家機関に所属して国家行事の時演芸を担当したという記録もあり、民間にも相当数の俳優がいて宮中行事に呼ばれない時は市中の工商人らを相手に生計を維持していたと見られます。彼らの活動を『高麗史』「全英甫列傳」、高麗歌謡「雙花店」などに照らしてみれば、宮中行事や外国使節らの出迎えの時山臺雜劇でも儺礼などを公演して平常時には一座で地方を歩き回りながら、パンソリ・綱渡り・タンジェジュ(曲芸の一種)・呈才・仮面劇・剣舞などの各種演戱で生計を立てていました。

ところで『中宗実録』を見れば、役者とは本来農地を持たず農作業もせず(無恒産者)、優戯で糧を得、時には強奪、盗みを行うこともあるとして社会の弊害と指摘されていました。また、『牧民心書』には役者が春・夏には漁業のため漁村に流れ、秋・冬には刈りいれを狙って農村に流れると書いてあるので役者や才人の演技がすでに高麗朝から全国で盛んに行われたことを知ることができます。とにかく先述の朝鮮純祖が彼らを統合して国の統制下に置いて、全国的な組織でスタートしたのが「才人庁」です。

才人庁歴史の消失

しかし残念なことに、才人庁に関連した文献は1920-30年代京畿才人庁に対する現地調査をした秋葉隆(1888-1954)と赤松智城(1886-1960)の共著の『朝鮮巫俗の研究』に都大房および師匠らの行跡を記録した『京畿道唱才都廳案』の訓序の内容を要約したのが全部です。

実際には、都大房および師匠らの行跡を記録した『京畿道唱才都廳案』 1部と『京畿才人廳先生案』 1部、そして『京畿道唱才廳先生案』 2部が1989年度まで残っていました。しかし、この本は才人庁ファレンイ出身の父イ・ジョンハの技能を伝承していた息子李龍雨が譲り受けて保管していたのですが、彼が1989年交通事故で他界した後焼却されてしまいます。

シナウィ圏と才人庁


先述した通り京畿、忠清、全羅三道にあった才人庁は奇妙なことに左右の道に分けて管理する体制でした。これはいわゆるシナウィ圏との関連を考えないわけにはいきません。「シナウィ」は巫楽長短を通称する用語です。シナウィ圏は長短の東西差がはっきりしていたために、行政区域区分として区別した用語です。パンソリを西便制、東便制と分けるのもこの長短の差に由来しています。結局、才人庁の地域管理体制は行政区域とシナウィ圏域を折衷した形態であったのです。

しかし、京畿道の場合は単純に長短の違いだけで見ることはできません。忠清、全羅の長短は勿論ですが慶尚の長短も受け入れて首府京畿らしく統合発展させてきた特性がより一層強いのです。より重要なのは、才人庁の組織が巫楽長短を重視したことから、才人庁は巫夫を中心にした崇神集団の性格であったことです。

今日京畿道の無形文化遺産のトダングッが我が国巫儀式中でも最も節制された踊りと華麗な巫歌でその芸術性を広く認められているのも才人庁が持つこのような基本性格が土台になったのです。

才人庁の朋党

『中宗実録』や『牧民心書』の指摘のように流れ者であった役者らが民間におよぼす弊害を国で適切に統制し、国の必要により便利に働かせるために、才人庁は既往の多様な芸能人集団を統合させて誕生しました。しかし、あまり選り分けないで多様な種類の技芸が一緒になったせいで才人庁末期にはこれらの同居が不便になり、とうとう分離していく事態を迎えたようです。推測するに日本による廃庁作業以前にすでにこういう気運があったようで廃庁作業は少なくとも巫夫と一般芸能人が決別する導火線になったのでしょう。


資料提供:才人庁伝統舞踊伝承会 (韓国 果川市)

(翻訳の誤りがございましたらその責は竹田陽子に帰するものです。)

才人庁舞踊のページへ

竹田陽子研究室ホームページへ