踊り手 李東安

芸能人の素質

李東安は、才人庁の血筋にありながら廃庁以降家業にまったく関心がなかった有閑知識人の父と巫女であった母の間に生まれました。李東安の父親は息子に才人庁の芸脈を継承させようとせず学問を修めさせようと考えました。

しかし、12才の時に故郷に男寺党牌(男性のみで構成された伝統的な旅芸人集団)が現れたことは、李東安の一生一代の転換点になりました。彼らの演技に惹かれて、チョン・ファチュンが頭であった男寺党牌に付いて家出を敢行したのです。かくして3年余イム・ジョンソンに綱渡りとタンジェジュ(曲芸の一種)を習って舞童の役割をしているうちに、一人息子を失った父親の努力で黄海道行楽の場で捕らえられて家に連れ戻されました。

芸能人教育

李東安は、果川周辺の冷井里に集まって住んでいた綱渡り、曲芸師らの座長格のキム・クァンボから本格的な綱渡りを習ったのを手始めに、イ・ナルチの弟子であり、当代最高の踊り手だったキム・インホから十年かけて、本格的な踊りの指導を受けるようになります。この頃現ソウルの乙支路5街にあった国劇専用劇場の光武台に出演するようになりましたが、これは光武台最高の座長であったパク・スンピルの抜擢によるものでした。

それだけでなく円覚社、文楽政などにも出演しながら、才人庁舞踊と長短(拍子・リズム)はもちろん、足仮面の名人朴春載(芸名朴八封)、南道雑歌の唄い手趙鎮英、セナプ(太平簫)の名人方泰鎮、テグム、ピリ、ヘグムの名人張点宝など、歌舞楽全般にわたって当代の名人から伝統芸術の精髄の伝授を受けたのでした。

公演人生

このような修行の末李東安は、1927年日本全国巡演を控えて府民館で鶴舞と太平舞を踊ったのですが、これは色々な踊りを上演する現代的意味での舞台公演として最初の試みだったそうです。このことが多くの人々の噂にのぼり、天皇陛下の耳にも入って皇室で鶴舞を踊り、金一封を賜りました。この時を始めとして、1929年に大東歌劇団を組織してイム・バンウル、イ・ファジュンを含む名唱らと共に満州、中国を経て、ロシア国境地帯まで巡回公演を繰り広げました。

1936年には朝鮮音楽舞踊研究会で、舞踊指導を引き受けるようになりました。朝鮮音楽舞踊研究会は1930年に韓成俊によって設立されましたが、すでにこの研究会に参加していた舞踊家キム・インホの役割が大きかったと見られています。生前の李東安はこの時期に越北舞踊家崔承姫にチャンゴ舞と僧舞、太平舞、勝戦舞、チンセ舞、イプチュムなどを教えて、彼女が世界的な舞踊家に成長する土台を作ったということです。

後進養成の道に

第二次世界大戦後から朝鮮戦争前後の時期、李東安は、我が国で最初に国楽、音楽、舞踊を専門的に教える学院を設立し、後進養成と現代的意味での伝統芸能公演文化の基盤を築きました。朝鮮戦争直前までは学院は大盛況で数多くの教習生を抱えていました。政治的な理由で38度線を越えた金白峰(慶煕大名誉教授、越北舞踊家崔承喜の弟子)を教えたのもこの時期とのことです。天安門事件現場を撮って全世界に打電した有名な写真記者で伝統芸術家を40年間撮り続けたチョン・ポムテによればソウルの名士夫人らが李東安を後援する集いもあったと言いますから、知名度は勿論高く、 李東安が伝統舞踊と関連づけられて評価された時代であったことも窺い知ることができるでしょう。

『…私が先生を知るようになったのは解放後の1946年、彼がソウルで活発に活動していた当時であった。いったいどんな方なのか気になったところへ当時ソウルの名士の夫人らが作った李東安先生後援会で彼に初めて会い、私は彼が天下の才能を持って生まれたのを知るようになった。才能に見合うだけ華麗に…全国津々浦々を巡って活動していた…』[チョン・ポムテ、国楽新聞第39号、1996.9.7.]

李東安の後進養成は60台後半から本格化し、ソウル、釜山、京畿、大田などで舞踊研究所を開設、これらの研究所を通じて李東安の踊りを習得した弟子は数多くいます。前述の故崔承喜、金白峰、慶州国楽界の大きい柱でパンソリ、弦楽、舞踊を専門とする伝統芸人の故張月中仙(前慶州市立国楽院舞踊指導:僧舞、剣舞、花冠舞、チンセ舞、勝戦舞、太平舞等伝授)、故キム・ベクチョ、チェ・ギョンエ(在米舞踊家)、キム・トンミョン、キム・ジンホン(釜山の伝統舞踊家)、故チェ・ヒョン、ムン・イルジ(前ソウル市立舞踊団長)、ペ・ジョンヘ(ソウル市立舞踊団長)、チョン・スンヒ(国立芸術学校舞踊院教授)、シン・スンシム(前Little angles振付師)、オ・ウンヒ(ソウル芸術専門学校教授)、故チョン・ギョンパ(京畿道無形文化財第8号芸能保有者、才人庁流サルプリチュム、僧舞伝授)等の踊り手が多少とも李東安の踊りの世界を身につけたということです。

またやってきた苦難の時期

しかし70年代に入り高度経済成長期になると相対的に伝統舞踊に対する関心が薄れ、80年代初めまでの李東安の生活は先述の抗日時代とはまた違った形の暗黒期でした。チョン・ポムテがこの時期の李東安の様子をよく言い表しています。

『…そのころしばらく便りがなくて、うわさをたよりに捜しあてて大田まで尋ねた時には大層胸が痛かった。当時イ先生は往年の派手さとはほど遠い孤独な生活をされていた。その時先生の状況を新聞で報道したのが契機になって、シ・ムソン(民俗学者、文化財専門委員、公州民俗劇博物館館長-筆者注)先生の助けで温陽に先生の住居を用意することができた。その後ソウルに上京してまた研究所を開設して、弟子の育成に力を注いだ.…』

足仮面の逆作用

李東安は1983年足仮面(重要無形文化財第79号)で芸能保有者、所謂人間文化財になりました。足仮面は歌、漫談、踊りなどが一つに詰まり、庶民の喜怒哀楽をよく表わした総合歌舞劇で国文学的にも非常に大切な資料です。李東安の無形文化財指定のために当時文化財専門委員だった鄭昞浩(前中央大学舞踊科教授)が行った調査、報告書には太平舞がはっきりと審議の対象に含まれていました。しかし足仮面が持つ国文学的価値が踊りよりも優先視されて、李東安は足仮面で芸能保有者になってしまいました。

マダン(宴庭)演戯の一種目で、技芸の一つとして身につけた足仮面は‘踊り手李東安’として生きて来た80年の舞踊家人生の価値を誤って評価させる原因になってしまいました。「私がやらなければ途絶えるからといって無形文化財に指定を受けたが、実際のところ私は踊り手であって足仮面芸人でないのさ。」と李東安は足仮面芸人である前に‘伝統舞踊の生き証人’と呼ばれることを望みました。男寺党牌について綱渡りを習った履歴のため‘最後の男寺党’と呼ばれた時には、大きな間違いであると強い語調で言い、その怒気に充ちた表情がはっきりと思い出されます。

踊りの伝授の状況

前述の弟子のそうそうたる名簿に続き比較的若い軸といえる李東安の弟子としては、小説家黄皙暎の夫人だった金明洙(太平舞、基本舞伝授)、李昇姫(6年間李東安伝統舞踊研究所の助教をつとめ多数の踊りを伝授)、ユン・ミラ(慶煕大教授、チンセ舞および長短、シンカルデシン舞伝授)、チョン・ジュミ(鄭珠美:太平舞および長短、基本舞、シンカルデシン舞伝授)、朴敬淑(シンカルデシン舞伝授)、アン・ヒョスン(パラム、基本舞伝授)、パク・ユンギョン(サルプリチュム、チンセ舞、僧舞、パラム伝授)等が代表的です。

それ以外にも足仮面の朴貞任(準無形文化財第79号足仮面芸能保有者、多数の踊りおよび長短伝授)、曹英淑(名唱趙夢実の娘)、崔炳基、宋英卓、ホン・ギョンヒなどがいて、綱渡りではキム・ヨンチョル、キム・テギュン、ムン・ジョンスン、キム・ジョンスンを挙げられます。

李東安は、生前に弟子を育てることを希望しながらも、踊りの伝授においては難しい性分で弟子を幅広く長くつかむことができなかったという指摘もあります。しかしこのような指摘は才人庁舞踊の正統的な伝授のための資格条件が厳格だったことを見過ごした見解です。

李東安の踊りの精神

才人庁は、基本的には巫楽長短の圏域によって管轄地域を2つに分けて組織されていましたが、これは才人庁が長短をどのように取り扱っていたのかがよくわかる重要な点です。伝統芸術の伝承という側面からみると、才人庁は長短、曲芸、踊り、唄など伝統的な技芸全般を網羅した総合芸術学教でした。

李東安によれば、才人庁の教育は位階秩序が徹底されていて、これを破った者には‘損徒法’といって、その後三年間は誰も話しかけず、孤立させたといいます。これから推察すると、才人庁の組織体系が相互分野に対する深い理解を土台にした組織であり、今日の芸術のように分化した職能体制でない相互統合的で有機的な体制で運営されたことがわかります。すなわち、各分野は存在するもの、踊り手ならばほとんどあらゆる分野を学んで身につけたのです。

『李翁によれば我が国の踊りは第一に長短をよく分かるべきで、軽く踊るとか無駄に回るとか踊りの世界の大きさと深さを人為的に計画しては絶対ならず自然に、また重く踊らなければならないということだ。 (中略) 李翁は色々な踊り以外にも歌唱と器楽、綱渡りなど多才多能な技能を持っている。この方の踊りの世界においては力学的な配分がうまくいっていて身振りの多様さを感じられるが、これは彼が幼い時から習熟した綱渡りから受けた影響を感じる。』[鄭昞浩、「李東安翁の踊り」、 李東安舞踊公演パンフレット、1977.]

李東安が綱渡り、足仮面、 タンジェジュはもちろん踊りと長短についてあまねく網羅した万能芸能人だったことも、師匠のキム・インホもやはりそうであったことも、才人庁の芸脈をつなぐことに気持ちを変えた李東安の父親が息子の教育のために色々な分野の名人達を迎えたのもこういう理由があってのことだったのです。晩年の水原時代には唄い手に唱法を教えることさえありました。隠れた京畿の唄い手で近年国楽放送を通して知られるようになったイ・ヒワンの場合です。彼は生前に「私の唄には才人庁の臭いがかなり染み込んでいるのだが、容貌のために人前に立つのが…。」と語っていたということです。

才人庁舞踊の長短は誠に多様で堅固で終わりがないのです。李東安の生前に演奏された才人庁長短を今日の公演現場でその味、その粋そのままに演奏されるのを聞く機会がないという現実には胸が痛みます。幸いにも現在志のある人々によってその復元作業が進行しているということです。とにかく、李東安は舞踊以前にこの才人庁の長短に対する博学な知識と深い造詣を持っていました。長短を単純に理解してそれに合わせて踊りだけを踊る水準では才人庁舞踊に正しく達することができないということを自ら体得した方でした。

資料提供:才人庁伝統舞踊伝承会 (韓国 果川市)

(翻訳の誤りがございましたらその責は竹田陽子に帰するものです。)

才人庁舞踊のページへ

竹田陽子研究室ホームページへ